あなたは茶道の歴史をどれくらい知っていますか?
茶道といえば千利休が有名ですよね!
茶道をやっている方であれば、珠光がわび茶を創始して、武野紹鷗がそれを発展させ、千利休が完成させたとご存じなのではないでしょうか。
でもそれだけではなく、長い長い歴史の中で、様々な時代背景やドラマがあったのです!
現在に至るまで、茶道がどのようにして生まれて、発展して、受け継がれてきたか…。
年表にまとめましたので、ご覧ください!
茶道の歴史年表!
年表は「茶道文化検定公式テキスト3級」をもとにまとめています。
茶道文化検定に関する記事はこちら↓↓
平安時代 ~日本の喫茶のはじまり~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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794年 平安京に都をうつす。 | 805年 遣唐使らによって日本に喫茶が伝えられる。≫ 815年 嵯峨天皇に梵釈寺の永忠が茶を振る舞う。 嵯峨天皇の命により全国に茶が植えられるようになる。≫ 859年ごろ 朝廷で春と秋の2回、大勢の僧を集めて、国家と天皇の安泰を祈る仏教行事・季御読経が行われるようになる。≫ |
平安時代のまとめ
◆登場人物
・遣唐使
・嵯峨天皇
・永忠
◆言葉
・喫茶
・白磁・青磁
◆行事
・季御読経
鎌倉時代 ~抹茶の広がり~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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1192年 源頼朝が征夷大将軍になる。 1336年頃 後醍醐天皇の南朝、足利尊氏が迎えた新しい天皇による北朝が対立。 | 天台寺の栄西によって日本に抹茶法が持ち帰られる。≫ 1214年 栄西が最晩年71歳の時に『喫茶養生記』を著す。≫ 同時期 栂尾の高山寺の「日本最古の茶園」にて茶の栽培が始まる。≫ 抹茶を飲む習慣は、近畿を中心として広がっていった。 鎌倉時代後半~ 中国・宋への貿易船が多く、美術工芸品や書籍、薬品、織物など(総称して「唐物」)が輸入される。 1320年頃 鎌倉で唐物を使った茶が流行する。≫ 同時期 大名たちに闘茶が流行する。≫ 1336年 鎌倉幕府は建武式目の中で贅沢で危険な集まりだとして闘茶や茶寄合いを禁止する。しかし収まることはなくその後100年以上も続いた。 同時期 将軍や大名は会所と呼ばれる建物を造り、喫茶の場とした。 会所における座敷飾りを担当する同朋衆が現れ、同朋衆一族によって座敷飾りの方法を書いた『君台観左右帳記』が残される。≫ | 1191年
鎌倉時代まとめ
◆登場人物
・栄西
・明恵上人
・同朋衆
◆文献
・喫茶養生記
・君台観左右帳記
◆言葉
・抹茶法
・本茶
・闘茶
・座敷飾り
◆場所
・栂尾
・日本最古の茶園
・会所
◆道具
・天目
・唐物
・大名物(東山御物)
室町時代 ~わび茶の誕生・信長/秀吉の茶の湯~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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応仁の乱で京都が荒廃し、堺が発展する。 1590年 秀吉が天下を統一する 。 1600年 関ヶ原の戦いが起きる。 | 1467年京都の東寺南大門前に一服一銭の茶売人が現れる。≫ 地侍や小領主の間で林間茶湯が流行る。≫ 1400年代後半 珠光により茶の湯のなかに禅の精神が取り入れられ始める。「わび茶」の誕生。≫ 室町時代末頃 武野紹鴎によって茶の中に和歌や禅の要素が取り入れられた。≫ 同時期から、会記として茶会の様子や道具の記録が記されるようになる。≫ 1540年頃 千利休が紹鴎のもとでわび茶を学びはじめる。≫ 1575年頃 織田信長が「名物狩り」を行い、功績によって茶会の開催などを許可する「御茶湯御政道」という政策を行う。 また千利休、津田宗及、今井宗久が茶頭を務める。≫ 1582年 利休が豊臣秀吉の茶頭を務める。≫ 同年10月 秀吉が関白に任命されたのをきっかけに正親町天皇の御所で禁中茶会を開催する。≫ 1586年 秀吉が「黄金の茶室」を造る。 1587年10月 北野天満宮にて誰もが参加できる大規模な茶会北野大茶湯を開催。 また利休の門弟で秀吉の茶頭も務めた堺の茶人山上宗二が茶の湯の秘伝書『山上宗二記』を著している。 1591年 利休は秀吉より切腹を命じられ、70歳で切腹する。 | 1400年頃
室町時代まとめ
◆登場人物
・珠光
・宗珠
・竹蔵屋紹滴
・十四屋宗伍
・武野紹鷗
・三条西実隆
・大林宗套
・千利休
・北向道陳
・今井宗久
・津田宗及
・正親町天皇
・山上宗二
◆できごと
・一服一銭
・林間茶湯
・わび茶の誕生
・名物狩り
・御茶湯御政道
・黄金の茶室
・利休の切腹
◆文献
・会記(松屋会記、天王寺屋会記、神屋宗湛日記)
・山上宗二記
◆言葉
・茶頭
・天下三宗匠
・懐石
◆茶会
・禁中茶会
・北野大茶湯
江戸時代 ~大名茶と利休の教え~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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1603年 徳川家康が江戸幕府を開く。 1615年 大阪夏の陣が起きる。 | 利休没後 茶の湯の世界では利休七哲と呼ばれる武将や大名が活躍する。≫ 1612年 小堀遠州が大徳寺孤蓬庵(茶室)を造る。 1615年 大阪夏の陣にてスパイ疑惑をかけられた古田織部が切腹。 1648年頃 利休の茶は息子の千少庵、さらに孫の千宗旦に伝えられた。≫ 千宗旦が不審庵を三男江岑宗左に譲り、今日庵を建てる。三千家の成立。≫ 1690年 宗旦門下の山田宗徧は茶道の普及を目指し『茶道便蒙釥』を出版。 1701年 同じく門下の藤村庸軒がまとめた利休の茶や逸話を、娘婿の久須見疎安が『茶話指月集』として出版。 1710年頃 宗旦の息子たちと宗旦の弟子の御師杉木普斎、儒学者三宅亡羊によって利休の茶が広められる。 同時期 薮内家五代の不住斎竹心は、華美に流れ始めたこの頃の茶を利休のわび茶に戻すことを主張して『源流茶話』を著した。 江戸時代中頃 表千家七代如心斎宗左や弟の裏千家八代又玄斎一燈宗室、如心斎門下の川上不白(江戸千家の祖)らによって七事式が考案される。≫ 1760年頃 千家十職と言われる三千家で使う茶道具を専門に作る家が定まる。≫ 1797年 松平不昧は図入りの名物茶道具集『古今名物類聚』を出版することで茶道具のランクを確定させようとした。 同時期 『茶器名物図彙』を著した草間直方など全国で茶を学ぶ豪商たちが活躍。 1859年頃 井伊直弼が茶道の精神に興味を持ち、一期一会を主張し、『茶湯一会集』を著した。 |
江戸時代まとめ
◆登場人物
・利休七哲
・小堀遠州
・古田織部
・千少庵
・千宗旦
・江岑宗佐
・藤村庸軒
・久須見疎安
・杉木普斎
・三宅亡羊
・不住斎竹心
・如心斎宗左
・又玄斎一燈
・川上不白
・松平不昧
・草間直方
・井伊直弼
◆茶室
・孤蓬庵
・今日庵
◆できごと
・三千家の成立
・七事式の考案
・千家十職
◆文献
・茶道便蒙釥
・茶話指月集
・源流茶話
・古今名物類聚
・茶器名物図彙
・茶湯一会集
明治時代 ~近代の茶の湯~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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大政奉還が行われる。 | 1867年裏千家十一代玄々斎宗室が外国人も気軽に茶を楽しめるようにと椅子とテーブルによる点茶盤=立礼を考案。≫ 1870年代 明治維新により茶の湯の衰退したが、一方で教育機関による礼法に代わって茶の湯が取り入れられるようになった。≫ 1887年頃 井上馨による八窓庵の移築をきっかけに茶道が再生した。≫ 1895年 益田孝など政財界人の間では仏教美術や園遊会形式などを取り入れた新たな茶会「大師会」が行われた。 1900年 元平戸藩主の伯爵松浦詮を中心に16人の数寄者を会員とした「和敬会」の結成。 1902年 関西在住の数寄者18名で組織された「十八会」の結成。 茶の湯の世界で政財界人の数寄者が活躍。≫ 1906年 岡倉覚三が茶道を例にとって日本文化を紹介した『茶の本(原題 THE BOOK OF TEA)』を出版。日本文化としての茶道の位置を国際的にも高めた。 | 1872年
明治時代のまとめ
◆登場人物
・玄々斎宗室
・井上馨
・益田孝
・数寄者
・岡倉覚三
◆できごと
・立礼の考案
・茶の湯が教育機関で取り入れられる
・和敬会の結成
・十八会の結成
◆茶室
・八窓庵
◆茶会
・大師会
◆文献
・茶の本(THE BOOK OF TEA)
大正時代 ~社寺への献茶~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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高橋箒庵は自分が出向いた茶会での数寄者の茶の様子を新聞などに連載して好評を博した。 名物茶入や茶碗を写真入りで紹介した『大正名器鑑』も刊行。 1878年 京都の北野神社で薮内家が献茶を行う。 1880年には表千家により献茶が行われ、以後定例化。 各地の寺社で家元などによる献茶が盛んになる。 1898年 豊太閣三百年祭では京都東山の豊国廟での献茶に合わせて、40カ所あまりの寺社を会場にして20日以上にわたって茶会が開催された。 | 1821年
大正時代まとめ
◆登場人物
・高橋箒庵
◆文献
・大正名器鑑
◆できごと
・北野神社での献茶
・豊太閣三百年祭
昭和時代 ~利休への回帰~
日本の歴史 | 茶道の歴史 |
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京都北野神社で豊臣秀吉が行った大茶会から350年になるのを記念して昭和北野大茶湯が行われた。 1940年4月 大徳寺で千利休三百五十年忌の法要・茶会が行われた。 | 1936年
昭和時代まとめ
◆茶会
・昭和北野大茶湯
・千利休三百五十年忌
武家茶道流派の系譜
実は茶道には多くの流派があります。
なかでも武家茶道流派を中心とした流派の系譜をまとめてみました。
ここでは流派の祖が武士階級のもの、またはその流派の流れを組むものを武家茶道流派としています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ぜひ長い長い歴史の中で様々な出来ごとがあり、今のかたちになっているのですね。
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