あなたが思う茶道の魅力は何ですか?
私が思う茶道の魅力は、日本文化に詳しくなるとか礼儀作法が身につくとか…。
この記事では“心理学的に考える茶道の魅力”を、岡本浩一さん著の「心理学者の茶道発見」の本の内容に触れつつ、紹介します!
著者 岡本浩一氏
社会心理学者、東洋英和女学院大学人間科学部教授。
リスク心理学研究、社会技術研究を拓いたほか、安全政策・コンプライアンス政策の第一人者のひとり。
裏千家茶道を修め、月間茶道誌「淡交」にて長年にわたって「茶道心講」を連載。
・オレゴン大学心理学科フルブライト客員助教授
・国際政治心理学会理事
・カーネギーメロン大学大学院博士学位審査委員
・原子力安全委員会専門委員
・内閣府原子力委員会専門員
・日本相撲協会ガバナンスの整備に関する独立委員会委員
・九州電力第三者委員会委員
・茶名・宗心
・裏千家淡交会巡回講師
・裏千家学園茶道専門学校理事
・茶の湯文化学会会員
・第十三回茶道文化貢献賞受賞
心理学的に考える茶道の魅力① 心が静かになる
お点前をすると、直前までイライラ・モヤモヤしていた気持ちがスッキリしたと感じることがありませんか?
これはお点前の手順に集中しているからだと思うかもしれませんが、正確にはそうではなくて、脳の働きに関係があるのです。
右脳と左脳の働き
人間の体は外から見ると左右対称で、脳みそも左右対称ですが、左右で働きが違っています。
岡本浩一氏は次のように説明しています。
脳は、ほぼ対称な形の左脳と右脳が、脳梁でつながってできており、左右の脳は異なる機能を分担している。(中略)具体的には、計算やコンピュータのプログラミング、言語理解や推理などは左脳が行い、右脳が、喜怒哀楽を感じたり、運動を記憶したり、音、味、香りの認識や記憶などを司っているのである。
第1章「癒し」の発見 P11
つまりまとめると、
右脳:感情や運動の記憶、音、味、香りの認識や記憶など
左脳:計算や言語理解、推理など
そして2つの行動を同時にしようとするとき、右脳どうし・左脳どうしの行動はとてもやりにくいことがわかっています。
理由は脳の働きが競合してしまうからです。
歌詞がある音楽だと言語的な刺激になり右脳で処理しきれず、左脳を使う程度が高いので、左脳で行う勉強と競合して、勉強に集中しにくくなります。
逆に右脳と左脳の2つの行動はやりやすいということです。
車の運転も初心者の方だとハンドル操作やアクセル操作などにも不慣れなため左脳を使う割合が増え、話しながらの運転なんて無理という方もいるかもしれませんね。
運転に慣れていてる方であれば“体が覚えている”状態になり、右脳のみで行動が処理でき、話しながらの運転が可能ということになります。
茶道のお点前も右脳で処理できる!
茶道のお点前も車の運転に似ていますね。
茶道を始めたての頃は、先生の指導を理解したり、手順を考えたりと左脳を使う割合が多いですが、慣れてくると“体が覚えている”状態になり、左脳の関与が低くなります。
感情の処理(右脳)×お点前(右脳) つまり…
イライラやモヤモヤした気持ちというのをもう少し突き詰めると以下のようになります。
対人関係などで「イライラした感じ」というのは、「頭では納得しているのだけど、心の底では納得できていない感じ」と表現される状態であろう。それは、つまり、論理(言語)はともかく、不快感、納得できない感じが情緒的に右脳で継続している状態と考えることができるのではないだろうか。
第1章「癒し」の発見 P12
お点前という右脳の行動と競合してしまうということですね。
つまり、点前によって右脳を使い出すと、右脳は、対人関係の不快感などの処理を打ち切って、その処理容量を点前の活動に明け渡さなければならなくなる。これが、点前によって清涼的な心理効果が得られるひとつの理由だと考えられる。
第1章「癒し」の発見 P12
つまり、脳の構造的に、お点前中はお点前以外のことを考えられないから、静かな気持ちになれるということなんです。
またお客さんとして亭主のお点前を見るのも、「真剣に見つめる=右脳の働き」になるので、さまざまな思考が抑えられて落ち着いた気持ちになれるということです。
茶道の魅力①心が静かになる まとめ
茶道で心が静かになるワケ
- 右脳どうし・左脳どうしの行動はやりにくい
- お点前は右脳で処理
- 感情の処理も右脳で処理
=お点前以外のことが考えられなくなる
心理学的に考える茶道の魅力② 心が癒される
自分で購入した茶道具を時間が経ってから改めて見ると、そのときの心情や環境、状況などがよく表れた道具を選んでいるなと感じたことはないでしょうか。
道具には心が映るんです。
「投映」という現象
上の写真のインクのシミ、何に見えますか?
インクのシミが「なにに見えるか」「どうしてそう見えるか」を分析することで、心の個性や心の状態がわかる臨床心理学に欠かせないテストです。
子どもが雲を見る。ある子どもには、雲は綿菓子や飛行機やサンタの入る煙突の煙など、楽しいものに見える。そういう子どもは明るい気持ちをふんだんに持っているので、明るい心が外の物に映って見えるのである。別の子どもには、同じ雲が意地悪な怪獣や不気味な妖怪になる。それもその子どもの心の投映である。
第1章「癒し」の発見 P17
つまり人は、無意識に、見たものに自分の心を映しているのです。
茶道具と“投映”
茶道で使う道具を思い出してみると、色合いやデザインがあいまいで地味なものが多いことに気づくと思います。
そのあいまいな色やデザインは、こちらの気持ち次第でどんな風にも解釈することができます。
つまり自分の心が映りやすいということになります。
岡本浩一氏はあいまいな色やデザインの具体的として「黒楽茶碗」をあげています。
黒は強い色でありながら、同時に豊潤なあいまいさを蓄えた色である。あるときは峻厳を映し、あるときは慰めを映し、またあるときは柔和をも映す色と姿であったから、黒楽は常に茶人のそば近くで愛され続けて来たのである。
第1章「癒し」の発見 P21
↓黒楽茶碗
茶道具はどうしてあいまいで地味なのか
では、茶道ではどうしてあいまいで地味な道具を使うのでしょうか。
わび茶の祖である珠光は、それまで「中国から輸入された高価な道具を鑑賞しながら抹茶を飲む茶の湯」に「禅の精神」を取り入れはじめました。
※茶の湯=茶道のこと
珠光が禅を学んだ一休宗純(とんちで有名な一休さん)は大徳寺の禅僧で、大徳寺は茶の湯とも関係が深かったため、珠光は禅と茶の両方の修業を積みました。
珠光は修行のなかで、人間形成において茶の湯と禅宗に差異はない、つまり茶味と禅味が一体のものであることを悟りました。
これを『茶禅一味』といいます。
珠光によって禅の精神が取り入れられた茶の湯は、珠光の弟子の武野紹鷗や千利休によって『わび茶』として少しずつかたちが整えられていきました。
そして茶の湯の精神性が変わり始めたことで、茶の湯に用いる道具も変化していきます。
具体的には中国から輸入された華美で高価な唐物から備前焼や信楽焼など質素な焼き物がふさわしいとされ、その後の茶道具は質素な地味であいまいなものが多く使われるようになります。
↓唐物の天目茶碗 「建盞天目」
↓備前焼 抹茶椀
つまり茶の湯に禅の精神が取り入れられたことで、道具も質素なものへと変化していったということです。
そして、茶人たちは、地味であいまいな道具へ投映をおこなっていた、つまり茶の湯は“心を映す場”であったといえます。
茶道の所作と投映
茶道具だけでなく茶道の所作そのものも投映の器となります。
無言の点前でありながら、祝いの茶で祝意を、見舞いの茶で慰めを、盟友の茶で信頼を客がありありと感じるのも、投映の機能である。
第1章「癒し」の発見 P21
無言の点前から感じる亭主の気持ちは、自分の心の投映の影響も受けているといえます。
心理学では深い投映を経験すると、心理的な癒しが得られることがわかっています。
茶の湯は戦国時代を生きた武士や素早い判断が求められる豪商、重たい責任を背負う政治家など孤独とともにある人たちにも愛されてきました。
それは、誰にも悩みを打ち明けられず、孤独に決断をしなければならなかった彼らにとって、唯一の癒しだったからなのではないでしょうか。
茶道の魅力②心が癒される まとめ
茶道で心が癒されるワケ
・無意識にものやことに自分の心を映す現象=「投映」
・茶の湯のあいまいな道具や鍛錬された所作も投映の器となる
・深い投映の経験は心理的癒しになる
→茶道の道具や所作に無意識に投映をおこなうことで、心理的癒しとなっている
心理学的に考える茶道の魅力③ 飽きない
茶道を習っていると、道具の種類は多いし、季節によって炉と風炉と座る場所が変わり、茶会や茶事で全く同じしつらえなことは2度とないし、全く飽きませんよね。
茶道を全く知らない友人に、茶道を10年もやってて飽きないの?と聞かれたことがありますが、即答で「飽きない!」と答えました。
即答する気持ち、茶道をやっている方なら共感していただけるかと思います。
心理学的に考えた、茶道に飽きがこない3つの理由があります。
心理学的に考える茶道が飽きない理由 1.達成感がある
茶道は、趣味のなかでももっとも達成的な趣味のひとつです。
小習だけでもお点前は16種類、すべての点前ではないですが、炉と風炉とそれぞれあることを考えると点前の種類だけでも相当あります。
(→裏千家茶道のお点前一覧)
そして道具によっても扱いが変わります。
そんな多種多様な点前や道具の扱いも、許状という制度があるために、とても達成感を感じるものになっています。
許状というのは、上位の点前を学ぶために、家元からいただくお許しのことです。
この許状がないと上位の点前を教えていただくことができません。
裏千家の場合、最初は「入門」でもっとも基本となるお辞儀の仕方から学び始めます。
そして最も種類があり点前の基礎となる「小習」、季節によって種類がある「茶箱点」と続きます。
テキストが存在せず口伝で教わる「四ヶ伝」、そして奥儀である「相伝」…。
(略)習得すべき点前の種類や道具の扱いが多く、一定の道筋でひとつひとつ身につけていく仕組みになっており、点前の階段をひとつひとつ上がる楽しみがある。覚えたつもりの点前でもしばらく遠ざかっていると全然できないことが多いので、ふだんの復習もやりがいがある。
第1章「癒し」の発見 P26
飽きがこない理由の1つ目はこの茶道の仕組みです。
心理学的に考える茶道が飽きない理由 2.“これでよし”がない
茶の湯は、求められる知識や感性の多様さ幅広さという点でも、随一である。掛軸、茶室建築、点前道具の機能や由来、茶碗や水指などの陶磁器、骨董の由来や真贋に関する知識など、要求される知識は、範囲も広ければ深さも深く、しかもそれらの知識が点前のあらゆる面の豊かさに微妙かつ甚大な影響を与える。
第1章「癒し」の発見 P26
茶道を始めたてのときは、道具の名前や点前の手順を覚えるので精いっぱいでしたが、慣れてくると、その道具の由来など背景にも目が向くようになります。
点前もただ流れを完璧にやればいいというわけではなく、所作やリズムなど手順以外のところにも気がいくようになります。
そうして経験を積めば積むほど、茶道というのは奥が深くて、すべてを理解することなんてできない、まさに“これでよし”なんてことはないんだと痛感します。
でもそれは「終わりがない…」という絶望ではなくて、経験が積み重なるほど、知識と知識がつながったときのアハ体験というか、「こないだのあれはこうだったのか…なるほど!」みたいに腑に落ちてとてもおもしろいのです。
飽きない理由の2つ目は、良い意味で終わりがないということです。
心理学的に考える茶道が飽きない理由 3.かたちのない美がわかるようになる
名碗、名陶に接し、取り合わせを学ぶうち、「美」という当初はあいまいに見えた判断に厳然と秩序がそなわっていることを知る。
すると、ごくスタンダードな折敷や手燭の寸法にすら、その秩序が息づいていることに気づく。
さらには、水指の前に棗と茶碗を置き合わせるというだけのことでも、達人の置き合わせには美が宿り、凡人の置き合わせには美が宿らぬことを痛感するようになる。
第1章「癒し」の発見 P26.27
美とは「これ」といったかたちがありません。
ですが、秩序があるんですね。
この秩序がわかるようになると、達人と比べて自分の鍛錬不足を痛感するようになります。
そこでまた達人の点前や取り合わせを見て、学んでいく、その繰り返しが美的感性を磨き鍛えることになるのです。
自分が美的感性を磨くことで、茶会や茶事での美の秩序がわかるようになるのはとても楽しいですね。
飽きない理由の3つ目は、あいまいに見えた美の秩序に気がつくようになるということです。
茶道の魅力③飽きない まとめ
茶道が飽きない理由
1.達成感がある
2.“これでよし”がない
3.かたちのない美がわかるようになる
心理学的に考える茶道の魅力④ “侘び”の概念を知る
茶道には季節に関連した点前が多くあります。
その理由は、心理学的には「主観的自由度を高めるため」といえます。
主観的自由度
主観的自由度というのは簡単に言うと、「ものごとに対しての心の持ち方」ということになります。
有名な実験がある。「ブーン」という雑音が鳴り続けている部屋で、被験者に計算作業のような課題をやってもらう。そのとき、半数の人には「雑音が我慢できなければ、このスイッチを押して止められます。でも、できれば、スイッチを押さないで我慢してやってください」と言った。もう半分の人には、そのような教示をしないでおく。そうすると「音を止めるスイッチがある」といわれていた人たちの方が、雑音ストレスによる妨害効果が軽度ですんだという実験結果が出たのである。
第1章「癒し」の発見 P30
つまり、ストレスがあるときに、ストレスを主体的に受け止められる人はストレスに心をむしばまれにくいということです。
茶道と主観的自由度
では、「茶道に季節の点前が多いのは主観的自由度を高めるため」というのはどういうことでしょうか。
茶道の点前が確立された時代というのは、もちろん、クーラーや暖房なんてありません。
では夏の暑さや冬の寒さをどうやって乗り越えるか?
それは主観的自由度を高めて、積極的に受け止める、つまり楽しんじゃおうということなのです。
「洗い茶巾」はもっとも夏らしい心映えの点前だが、クーラーの効いた茶室ではやはりピンと来ないだろう。
晩秋になり、「そろそろ冬だな、いやだな、今年の寒さはどうなのだろうか」と思ったころに、風炉の火を客近くに据える「中置」の稽古をすると、すぐそこまで来ている冬の気配を迎え入れる心境が生まれて来る。
冬の寒さの主観的自由度を考えるときに忘れられないのは、夜咄の茶事である。冬のストレスは、寒さと夜の暗さ長さにあるわけだが、夜咄は、その冬の寒さ暗さに真正面から挑む形で冬を楽しもうという魔術である。
第1章「癒し」の発見 P29.30
※洗い茶巾:お点前中に唐金の建水に茶巾を絞り、唐金に水滴がポタポタと落ちる、その音が涼しげだと楽しむ夏限定のお点前。
※中置:少し寒くなってきた時期に、風炉の火をお客に近づけて行う点前。炉に変わる直前の10月限定のお点前。
季節の点前は、先人の知恵により生み出された気候ストレスを楽しんで乗り越える手段といえます。
侘びの概念
主観的自由度とは「ものごとに対しての心の持ち方」であると書きました。
茶道における美的概念である“侘び”がなんであるかについても、ものごとに対しての心の持ち方と答えることができます。
“侘び”というのは「一目見ればわかる美」ではありません。
岡本浩一さんは“侘び”を以下のように解説しています。
「見て、心で切り取り、主体的に見つけなければ見つからない美」
第1章「癒し」の発見 P33
千利休と古田織部の唐物茶入の蓋の窠(虫喰い)をめぐる逸話は、主観的自由度のよい例だと考えている。
利休が求めて来た唐物茶入に蓋を作らせたところ、出来上がって来た蓋に窠があった。唐物茶入の蓋は本来無疵であるべきところ、利休はその窠を面白いと感じ、織部を招いて茶事を催し、その窠が勝手側になるように蓋を置いた。すると、今度は織部がその茶入を借りて帰り、数日後に利休を招いた。そのとき、織部は窠を客側にしてその茶入を用いたというのである。ここには、凡人なら疵として嫌う窠を景色として積極的に楽しもうという利休の主体性と、その方向を理解し、それをもっと推し進めようとする織部の姿を見てとることができる。
第1章「癒し」の発見 P32
「美」のかたち同様、“侘び”も目に見えず、あいまいなものですが、“侘び”とは「主体的に見つける美」とい言い換えることができます。
なんとなくちょっと寂しい感じ?という認識だった“侘び”の概念を知ることでさらに茶道が楽しくなります。
茶道の魅力④“侘び”の概念を知る まとめ
“侘び”の概念
・主観的自由度=ものごとに対しての心の持ち方
・季節に対して主観的自由度を高めて乗り切っていた
・侘びとは「見て、心で切り取り、主体的に見つけなければ見つからない美」
・主体的に見つける=主観的自由度
まとめ
心理的に考える茶道の魅力4つを見てきましたが、いかがだったでしょうか。
なんとなく感じていた茶道の魅力は心理学的にこういう現象だったのか!と腑に落ちたのではないかと思います。
今回は第1章の内容を茶道の魅力として紹介しましたが、とてもおもしろい本だったので、興味がある方はぜひ読んでみると目からウロコがボロボロ落ちると思いますよ!
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